天啓とは

yoko162007-05-07

「天啓とは形あるものではない」と、
子供が見ていたアニメのキャラが
言っていました。


その通り!と私は思いました。
私は、ここにもしばしば『声』として、
書いていますが、厳密に言えば、それは
私たちにとっては「印象」に過ぎないこともしばしばです。


これは、私の中で翻訳されて出てくるのか、
はたまた、そういう言葉を使ってきているのかは分かりませんが、
人が思うような、「言葉や形」として現れないことがしばしばです。


よく、シンクロニシティという言葉が使われますが、
あれもまた、天啓の一つの現れです。
何度も何度も同じシンクロが起きる、ということは
あなたにそれに気付け、と言っているのであり、
そのことに気づかない限り、シンクロは続きます。


つまり『わーい、シンクロしてる』と喜んでいる場合ではありません。(笑)


サインは、本当はすべての人にやってきます。
そして形はない、といっても『印象』や感情、感覚、時には言葉を使って
私たちに訴えかけてきます。
どの人にも平等に、メッセージはやってきます。
けれど、それは私たちが普段思っているような、『言葉』として
やって来るばかりではありません。


最初はむしろ、全く違うやり方でやって来る事が多いものです。


なぜなら、考えてもみてください、こうしたことに慣れていない人の頭に突然
『声』が響いたとしても、あなたはすぐにそれを信じることができるでしょうか?
まず十中八九、気のせいにしてしまうでしょう。


それは、そのメッセージを寄越す存在にも分かっています。
だからこそ、あなたにシンクロや『印象』や、感情、人とのかかわりなどとして
あなたの元にそのメッセージを届けているのです。


本当に理解していただきたいのは、私や友人は特別な存在でも何でもありません。
ただ、私たちは、その『声』を聞くことに慣れているだけのことなのです。
皆さんの元にも、あなたに必要なメッセージは届けられています。


彼らのメッセージは、あなたの思うような、形では現れないかもしれません。
というより経験から言うと、自分の思っているイメージとはかけ離れている形で
あることがしばしばです。
ですから、たいてい、すぐにそれに気づくことはできないかもしれません。
私自身、それをメッセージだと気づき、それに従う、と決めるまでに
20数年を要しました。(苦笑)(早く気づけ〜。(笑))
本好きだったため、色々言ってくる内容の大胆さに、思わず自分で話を
考えているのかと思っていたのです。
「あ〜、本の読みすぎだわ」とか。(笑)


挙句の果てに、何度も注意のメッセージが来たにも関わらずそれを無視して、
頭を13針も縫う大怪我をして、医師に「打ち所が悪かったら、死んでたね」
なんて言われまして、その時になってはじめて、
ああ、あれはこれが言いたかったのか、と。(苦笑)


それで少しずつ、『声』とかメッセージに敏感にならないと命が危ないぞ、
と思い始めたわけです。
そこまで気づかないのも、どうかと自分でも思うんですが。(笑)
ここまでに気づけば、これほどいくつも縫い傷を作らずに済んだのでは、
と思いますね。
鈍感でい続けると、ろくなことがないような証明ですね。
それでも後遺症もなく、普通に生活できるのは、守りがあったお陰だと
思っていますが。


だから、皆さんも私の二の舞を踏まないように、どうぞ敏感になってください。
今の時代、意味なくこの地球に生まれてきた人はいません。
この時代を共に生きるために、やってきた皆さんですから、
望めば変われるのです。


オーラを見る時もそうですが、言葉や形でメッセージが来る、という
思い込みも捨ててください。


私がここに書いている『声』もいつもいつでも、言葉として
やってきているわけではありません。
それは印象であったり、単なる溢れる喜び、という感情であったりする
場合もあるのです。
それを皆さんに分かり易くするために、翻訳してお伝えしているのです。


もっとも、今ではほとんどが「声」という「形」になって聞こえるようになりましたが、
それは、私にとってこの形が一番わかりやすく、また、私にそれを受け取る用意があることを
示しているのです。


心の声を聞くことは、本当は難しいことではないのです。
頭で考えることに、心を明け渡さないで下さい。


受け取る前に「頭で考えてしまう」とやってきたメッセージも、そこで
消えてしまいます。
自分に素直になること、素直であり続けようとすること、
それがあれば、あなたにやってきたメッセージ、天啓を受け取ることができます。


ここで言う天啓とは、別に大胆な言葉を聞くこと、ではありません。
あなたの人生にとって、必要で有益なメッセージを受け取る、というだけのことです。
「本当の声」は、人間にとって、「ええ?そんなのあり得ないでしょう?」なんて
思うことも伝えてきます。


けれど、意外やその声の通りにすることで、それまであり得ない、と思っていたことが
成就することが少なくありません。
少なくとも「あなたの魂の声」は、あなたが不幸せになるような事は言いません。
最終的にあなたにとって、もっとも幸せになる方向を、きちんと指し示してくれます。
短期的にあなたにとって、それが不利に思えるようなことでも、最終的には、
あなたを幸せにする結果を必ずもたらせてくれる・・・、それがあなたの魂の声です。


一度、本気でその声を受け取る、と自分に決意してみてください。
頭が色々言い出すことには知らん顔して、一度でいい、その声に従ってみてください。
あなたの魂の声に。


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アセンションへの旅4

yoko162007-05-04

私の友人の顔が浮かびました。
彼女も私と一緒にエルサレムへ行く役目がある、と私は感じました。
そして、そのことを友人に話すと、「えーっ、それは無理」と思ったとおりの反応が
返ってきました。
でも、そういいながらも、彼女もまた、私と同じように、そのことに抵抗しても
無駄だと知っています。


というわけで、二人でどうすれば行けるのか?、また、それはいつなのか?
を考えてみることにしました。
それにしても、どうしてもイスラエルに行かないとダメなのかな? と
友人と話していて、はた、と気が付きました。


そういえば、以前メッセージは、日本は世界の雛形だと言ってなかったっけ?
と、いうことは日本のどこかにエルサレムがあるはず。
それで、日本のエルサレムに行く、ということでもOKかどうか聞いてみると、
それでもいいらしいことが判明。


それで私たちは、心底ほっとして、日本のエルサレムは一体、どこなのか
調べることにしました。


イスラエルとかかわりがあるらしい出雲大社や、宗像大社など、色々
調べてみましたが、どうもここ、という感じがしません。
形どおりの場所、ということではなさそうです。
とにかく時期だけは、2007年春、ということが分かっていたので、
その日が近づいてきたら、何かお知らせがあるだろう、と待つことにしました。


とは言っても、なんだか気になっていろいろと探してみたり、
地図を調べてみたりしていたのですが(笑)全くそれらしいところは
見つかりませんでした。


そのうち日程だけは、はっきりと4月24日だと指示があり、
平日の火曜日なんて、なんて都合が悪いの、と思いながらも、
場所は決まらないままに日は過ぎていきました。


そして、今年2007年1月も終わりごろだったでしょうか、ふと私の目に
熱田神宮』という文字が、飛び込んできました。
それまで熱田神宮がどんなところなのか、まったくもって、知らなかったのですが、
それを見た瞬間、そこが4月24日に行くところだ!! と突然閃いたのです。


友人に確認を取ってみると、彼女もそうだと言います。
熱田神宮って、一体どこ・・・?
二人とも知らなかったので、とりあえず、ネット検索してみると、
名古屋にあるらしいことが分かりました。
3種の神器の一つ、草薙の剣の収めてあるところ。
とにかく、私たちが知っていたのは、その僅かな情報に留まりました。
実際に何をすればいいのかは、本当の所、当日行って見なけりゃわからない・・、
というわけです。


熱田神宮へ行く前の日に、私に来ていたメッセージは
その日24日、熱田神宮エルサレムとして機能するだけでなく、
世界の縮図になる、というようなイメージを私に伝えてきていました。


まさか、その縮図になった世界を癒せとか、浄化せよ、
とか言うんじゃないでしょうね・・・。
嫌な予感を抱えつつ、今まで何度こんなパターンで、大変な思いをしたことか・・。


そんな予感を持って、熱田神宮へ向かった私たちでしたが、
本殿でのあまりに美しいエネルギーに、ちょっとほっ。
私たちは、呼ばれてここへ来たことを報告しに、本殿へ参拝することにしました。


本殿へ拝礼すると、そこからなんともいえない、柔らかで、輝かしいエネルギーが
吹き上げてきました。私は、私たちの到着を告げました。


その時、私は何か聞いたのですが、実のところ、今はその時に何を聞いたのか、
夢の中にいたように、さっぱり覚えていないのです。
大切な言葉を聞いた気がするのに、目が覚めたら、忘れていた・・、
とでも言わんばかりに全く思い出せないのです。
多分、ここに書くことはできない事柄なのでしょう。


けれども、その時はその重要な言葉を胸に、熱田神宮の中を巡ることになりました。
本殿の鳥居を抜けた途端、またまた空気は異様に重くなり、あっという間に
私たちのお仕事空間に出てきました。


そこで、様々な場所を浄化したり、エネルギーのバランスをとったり、
流れが悪くなっているところの流れを復活させたりしながら、
次はここ、と指示がある方向に進んで行きました。


しばらくすると、『八剣宮』という参拝する場所に出ました。
私たちは、そこが何かを知らなかったのですが(実を言えばまだ知らないのですが)、
参拝しようと石段に足をかけた途端、『何が望みか』と問う声がしました。
私たちに『まことの望みを言え』と言うのです。


私はその時、自分の本当の望みは何かと考えていました。
本当の心からの望み、この世界が変わるために必要なものは、
『愛』と『力』。
私は、このどちらもが共に必要だと思いました。
この世界が変わるには、愛が必要。
けれど、動かすためには力も必要。


そして、はっと気づいたのです。
『愛とは、力だ。』と。
私の腹は決まりました。
友人を促して、前へ進み出、私は、祈りました。
『私のまことの望みは、愛(ちから)です。』と。


すると、その声はまず友人に向かってこう言いました。
『汝には、金の龍と地の剣。これは世界を輝かせ、世界を守るもの。』
そして私に向かっては、
『汝には、白の龍と日の剣。これは世界を照らし、浄化するもの。』
と言いました。


この時、私たちはこの言葉を理解していたわけではありませんでしたが、
とにかくこの場で、その言葉どおりのものを受け取ったのです。
目には見えない、エネルギーとしての剣を受け取ったのでした。


そして、その場を離れようとすると、不思議なことに、
それまで降りそうに曇っていた空は突然明るく晴れ、太陽の光が差してきました。
その時は、まるで、祝福を受けているような気がしたものです。


もっとも、私たち自身に何か物理的な変化が見られた、
というわけでもなかったのですが。
(あ、そういえば、お互いに顔が光ってるよ、とは言い合ってましたね。笑)


その後も浄化したり、流れを呼び込んだりすることが続いたのですが、
一度、浄化しようとしていた時に『日の剣を掲げよ』という声がしたのです。
でもどうやればいいのかさっぱり分からなかったので、
イメージで腰から剣を抜いて、空に向かって掲げてみました。


が、何にも起こりません。
いつものように普通に浄化していた方がましなくらいです。
何かやり方が間違っているのかな?


そしてふっとあの声がくれた「龍と剣」とは愛の力のことだ、と気づいたのです。
あの声が私たちにくれたものは、物体ではなく、光。
すなわち、龍と剣は私たち自身なんだ、と。

つまり、私は剣を振るうのではなく、わたしが剣そのもので、
光そのものなのです。
ということは、日の剣を掲げよ、とは私自身が光であれ、と
いう事なのではないかしら・・・?


そう思った瞬間、私は自分の体から光が溢れてくるのを感じました。
そして、そう感じた途端、あっという間にその場の浄化は終了していました。


私たちは、その後も何度か、そのような事をして、もう終了? と思ったのですが、
二人揃って、「まだだね」と頷きあい、次の場所へと向かいました。
それは、最初に通った道だったのですが、その時は全く見向きもせず素通りしていた
宝物館への道でした。


その日はおりしも、儀式に使う鏡を展示して見せている最後の日でした。
これもまた、何か意味があるのでしょう。
私たちは、いくつかの鏡の前に惹かれるように立ち、二人のうちのどちらかが、
その鏡から情報を得ました。
その内容? それは、秘密です。(笑)
と、言うのは冗談ですが、こうした情報は、必要にならなければ、
取り出すことはできません。
ですから、今は私たちの内部にしまわれているのです。


さて、やっとこれでこの日のやるべきことは終了しました。
私たちは、剣、鏡、玉の3種の神器すべてを手にしていることを
知っていました。
それは物質ではなく、エネルギーとして私たちと共にあったのです。


剣は先ほど『八剣宮』でもらったもの、『鏡』は宝物館で、そして、『玉』は
私たち自身です。玉は魂のことですから。(^-^)


そして、これらのすべてを持って、私たちは本殿へと向かいました。
これらのすべてを、本殿へおわす神へ奉納するためです。


私たちは、二人とも何も言わずにただ本殿へ向かいましたが、
やるべき事はわかっていました。
私たちは自分の持つ3種の神器のすべてを奉納しました。
私は、突然自分が神官にでもなったように、儀式めいた古い言葉で
自分の得たもののすべてをお返ししていました。


神は私たちの差し出したものを受け取り、そして、
再び私たちにそれを与えました。
全き一つのものとして。
私たちの意識の中でそれは一つのものとして、
存在しています。



この時もやはり私は言葉を聞いたのですが、
この言葉は、大切に取っておこうと思います。
私にとって、とても大切な言葉でしたから。


私たちがこの日、本当は何をしたのか、何ができたのか、
よく分かっていません。
人間的な変化が地球に訪れるのは、まだずっと先かもしれません。
けれど、少なくとも私たちがやるべき事は果たしました。
そして、それがどのような結果であれ、満足しています。


また、これから先もたくさんこのようなことが続いていくのでしょう。
すべての人がアセンションし、新しい世界へと移り変わるために、
目に見えない仕事の一部を自分が請け負っていられることに、
誇りを持ってもいいかな・・。


きっと、私の魂は、どんな人生よりも、今が一番楽しいのだろうな、と
思います。

今回のアセンションへの旅は、これで終わりです。


このタイトルでブログをはじめた訳が、実はこんなところにあったのか、
と自分でも驚いています。
以前の私は、こんなことを決して書きませんでした。
興味本位な人を惹き付けたくないから。という理由を
人だけでなく、自分にも言い訳にしていました。

私は、恐れていました。
こんな事を書いたら、どう思われるだろうか、
誹謗中傷の的になるのは、嫌だ、と。
これは、今思うと、自分の中にあるトラウマだったのです。


でもこれは、今にして見れば、故ない恐れでした。
自分を恐れて何もしないのだったら、
何のために、この時期この地球に生まれてきたのか、わからない・・・。
だから、これを書く必要があったのね、と思います。


私が何を書いても、それを受け取る人にすべてを
任せてしまえばいい、と今は思えるようになりました。
私が何を書くかは、私に責任がある、けれどそれを読んで何を感じるかは、
その人に責任があるのです。
人の感想に私が責任を取るのは間違っていますから。(笑)


というわけで、これから、まだまだ続くであろう私の実際の
アセンションへの旅」と、これまでの「アセンションへの旅」を
時間が許す限り綴っていこうと思います。


少なくとも、私はここに書くことをただ想像して書いているわけでは
ないことを告白しておきます。
そして、それを書くということがどれほど、恐かったかも。
他の人にとって、それが真実か否かは私には問題ではありません。

なにしろ、これは私自身の旅ですから。
他の人には他の人の旅があるのでしょう。


私はこれからも、私の心の声が私を導く方へ、常に進んで行こうと
思っています。



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アセンションへの旅3

yoko162007-05-02

熱田神宮がこれほど素晴らしい場所だとは、
思っても見なかった私たちは、あまりのその美しさに心を打たれました。
金色に光輝くエネルギーを浴びて、立ち尽くしました。


思わず二人ともその光景を写真に収めようと、カメラを手にしたのですが、
何枚も撮らない内に、写真に撮ってはいけない、との声がしてきました。
私たちは、「がーん」と思いながらも、この神聖さを壊すことになる行為だと
感じていたので、その声に従いました。


熱田神宮へ来ることになったのは、去年の10月頃だったと思いますが、
例によって多次元存在からの声の指示に従ったからでした。

その声を聞いた時、私は普通に洗濯物を干していました。
その日はいいお天気で、ご機嫌で洗濯物を干していた私の頭に、
突然いつものように声が響いてきました。


エルサレムへ行け」と。


「はい?」思わず、洗濯物を落としそうになりながら、聞き返しました。
すると、もう一度頭の中へ「エルサレムへ行け」という言葉が響いてきました。


正直、去年の夏からずっとこの調子で「次は・・・へ行け」という指示が出て、
毎回、頭を抱えていましたが、だんだんそんな指示にも慣れてきたな、なーんて
思っていたのですが、これは予想外。


エルサレムって、エルサレムって、だいたいどこにあるのよ!?」
魂の声に従う、と決めていたにしても、これは予想の範疇を越えていました。
「だいたい、エルサレムに行って私に何をしろというの?」と思いました。
すると返ってきた答えに、またまた私は頭が真っ白になりました。


『愚かな戦争をやめさせよ。』


って、そりゃー、いくらなんでも無理っていうものでしょー。(^^;)
頼む相手を間違ってると思います。(きっぱり)


とはいえ、こう言ってきたからには、私に何かやることがあるらしい事は
わかっていました。
別にこの言葉どおりに私が戦争をやめさせることができるなんて、
思っているわけではありません。
が、何らかの仕事をせよ、という事なのだと私は理解しました。


これだけのことは、ほんの一瞬の間の出来事で、
当然、私はしばらく固まっていました。(笑)


思わず、言われた事の大きさに、しばらく呆然として、動けませんでした。
一体、何てこと言うのよー。と心の中では思っていて、体からは血の気が引き、
手には汗がにじんでいました。


でも。それでも、私の中にノーの答えはないのでした。
それがどんなに理不尽な要求に思えても、私にできないことは決して
私のところにやって来る事はない、と実体験を通して知っているのです。


だったら、実際に戦争を止めることは他の誰かがやるにせよ、
私にも何らかの仕事がある、という事です。
ならば、やるしかない、と心を決めて、さて、エルサレムがどこにあるのか、
と考えてみると、エルサレムは、たしかイスラエルだったはず・・。


イスラエルって、ものすごい危険地帯じゃないのっっっ。
そんなとこ行けないわよ! と思いつつ・・、なぜエルサレムなのかを
考えてみました。


エルサレムは、様々な宗教の聖地です。
そういえば、昔から、戦争は神の名の元に行われてきたのです。
今は、違う言葉を使う事もあるけれど、結局は思想の違いを宗教間の対立に
することで体よく戦争をしてきたのだ・・・、と思いました。
戦争は体の良い略奪行為に過ぎない。


それをやめさせる・・・、その行為は無意味だと知らしめるには、
人々の意識が高くなくてはならないのです。
人のものは自分のもの、というように意識が低いままでは、戦争をやめることは
叶いません。その根底にあるものが、幼い意識である限り、
人は本当に成長することは難しいからです。


以前、子供がまだ小さかった頃、彼女は『アンパンマン』が大好きで、
アニメを見たり、お話を読んだりしていました。
私は、『アンパンマン』に出てくる「自分は正義の見方!」というキャラクターに
限って、すぐにバイキンマンにだまされて、何もしていないアンパンマンに攻撃を
仕掛けてくるのを、いつも不思議な気持ちで見ていました。


なぜ、このキャラクターたちは、こんなに単純に知り合いでもない
バイキンマンの言葉を信じるのだろうか?、と。


でも、これは私たちの生活にとてもよく当てはまるのです。
知りもしない人のイメージだけで、その人をそしることや、
大変な目に遭っている人に対して、知らないという理由だけで、
好き勝手なことを言ってしまう事も、私はこのキャラクターたちと
なんら変わらないと思いました。


意識が高くなくてはならない、のです。


意識が高ければ、戦争を起こすよりも先に、
人を思い遣ることができるのです。
あの911の事件から、イラク戦争は始まりましたが、
あの911の事件に巻き込まれた人の家族がなんと言っていたか、
ご存知ですか?


直接、家族を失った苦しみの真っ只中にいるその人たちは、
決して復讐を叫んではいませんでした。
「私たちと同じように苦しむ人を増やしたくない」と、その人たちの言葉は
思い遣りに満ちていました。
復讐を叫んだのは、その映像を見て、恐怖に駆られた人々です。
怒りと不安は、人々を戦争へと駆り立てたのです。


ここに何があるのか、見て取れますか?


不安と怖れ。


実は、これほど恐い感情はないのです。
人は不安に駆られると、闇雲にそれを打ち消そうとします。
ゴキブリを嫌いな人が、むやみとゴキブリを打ち殺そうとするように、
もし、同じ行動を人間相手に取ったなら、どんな恐ろしいことになるかは
想像がつくでしょう。


戦争は、一種、こんな狂気に囚われた状態です。
冷静にならなければ、決して本当に自分が置かれた状況を判断できるものではなく、
闇雲にテロを抹殺しようと、ミサイルや銃を使っても、どうにもならないことを
いい加減に、気づかなければならないのです。
テロとは、暴力集団という物体ではなく、人の心の在り方だということに気づき、
相手を人間扱いすることがない限り、相手も人間らしく振る舞いはしないのです。



私たちは、いつも不安に駆られて、狂気に陥る前に、冷静になる必要があります。
ゴキブリが出たって、それでいきなり死ぬわけではないのです。
落ち着きましょう。


戦争の元は、私たちの心に潜んでいます。
私たち自身が意識を高く持つことで、すべては変化するのです。


書いているうちにまたもや、脱線してしまいました。(悪い癖です。^^;)
話を元に戻しましょう。


とりあえず、エルサレム。そこに行くにはどうしたらいいのか、と考えてみました。
どうやって行けばいいのか、などを考えているうちに、そこに行くのは、
私一人ではないことに気づきました。


ごめんなさい。再び、つづきます。


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アセンションへの旅2

yoko162007-05-01

この前は結局、前日の話で終ってしまいました。(笑)
当日にまだ、たどり着いてませんでしたね。(^^;)
続き書きましたが、長いので、ちょっと小分けにして
ここに載せますね。


そういうわけで私たちは何がなんだかわからないまま、
アセンション」してしまったらしいのでした。
というわけで、「じゃあ、寝てもいい?」
ここでもまだ、二人ともアセンションしたことの衝撃より、
眠気の方が勝っています。(爆笑)


とにかく眠くて、いやー「5次元って、『あ、かるい』世界なんだね〜。」とか
ものすごく軽いノリになっています。(笑)


何しろ変わった事といえば、明るくて軽くなったこと。
明るいから「あ」を取ったら、軽い。だから「あ、かるい」。おやじギャグ?(笑)


面白いことに、5次元が軽い、明るい、と感じた途端、3次元って
重かったんだー、と感じました。
5次元が「明るくて軽い世界」だとすると3次元は「おもい世界」。


「おもい」は」重い」と「思い」の意味。
「重い」は言葉通り、エネルギー的にも物理的にも重いことですが、
「思い」はマインド、つまり考えのこと。


考える世界・・・、すなわち精神に支配されている世界、これが
3次元だったと理解したのです。
物理的な世界だと頭では思っていたけれど、5次元の状態を知ると、
3次元はむしろ、とことん「精神」に支配されている世界なのだ、と
理解できてきました。


過剰に欲しいという気持ちは、確かに精神が生み出すもの。
肉体は、必要以上のものを欲しがるはずはないのですよね。
人は、自分の体の状態を無視しても、余分に食事を取ったり、
お酒を飲んだりタバコを吸ったりすることができます。
これは、精神の支配によるものです。


5次元では考えないこと、ただ『在ること』こそがスタンダードなのだと
感じます。そう、「感じる」これも5次元で大切なもの、ですね。


ああ、そういえば、今は普通に地球も3次元というより、
4次元に入ってきているそうです。


(それから申し上げておきますが、アセンションするのが
特別な事だ、なんて思わないで下さいね。
誰かが先にお風呂に浸かっているからって、別に
すごいことじゃないでしょう。(笑))

これからみんなアセンションするんです。だから、とっても普通のことなんです。
それに、私たちがアセンションしたって事は、これを読んでる方たちも
すでに知らずにアセンションしてしまっているかもしれません。
なんかいつもより、空気や体が軽い気がする、なんて感じませんか?

毎日がなんとなく楽しくなってきたりしていませんか?
皆さん、どんどんアセンションしてください!!


そうして、人類全体の振動数を上げましょう!!
(って、また脱線しています。^^;)




この後も色々やったのですが、他の事はすべて忘れてしまいました。(笑)
一番不思議だったのは、ずーっと、眠くて眠くて仕方なかった私たちが、
その日にやるべきことを終了した瞬間、目が覚めたこと。(笑)

あー、これは明らかに眠い状態にしてくれていたんだなー、と
思いました。
考えられない状況をわざわざ作ってくれていたのだと、
わかって、本当に神様っているわね、とまたもしみじみと思いました。


さて、やっと24日。


滋賀を出る時には、暖かかったのに、名古屋につく頃には、
新幹線の中もなんだかひんやりしてきました。
エアコンが入ったのかと思っていたら、外に出たらもっと寒くてびっくり。

熱田神宮に出かける前、今日の作業にどのくらい時間がかかるかしらと
聞いてみると、『鞍馬の時よりかからない』とのこと。
「鞍馬」と聞いた瞬間、去年行った鞍馬山での出来事を想い出し、
あれよりましなのか、となんだか一瞬気が緩みました。


鞍馬山でのお仕事の時は、朝10時に始まって、終ったのが午後3時過ぎ。
一緒に行った方たちも大変な状態で、おまけに、
午後4時まで食事もできず、遠いところから来られた方に至っては、
午後6時すぎにやっと食事にありつけた、というくらい、時間もかかって、
困難でしたから、あれよりまし、と言われたからといって、
ほっとしている場合ではないのでは・・・?


と思い至ったのは、鞍馬の二の舞をしたくないと、前もって食事を取ることにして、
入ったスターバックスの中。
ともかくも、そこで軽めの食事をして、さあ、と熱田神宮へ。


熱田神宮は、今回のことで「次はここ」と決まるまで、意識したこともない
場所でした。というか、基本的にもともと神社とか、パワースポットには
あまり興味がなくて、ほとんど寄り付きもしなかったので、この魂のお仕事が
始まるまで、行ったこともない所ばかりでしたが。(笑)


熱田神宮は調べてみると、三種の神器と呼ばれる剣、
「草薙の剣」が安置されている場所でした。
実際、行ってみると敷地が広く、駅から歩いてもすぐかと思っていたら、
結構歩く歩く。
やっと、門まで辿りついて、入った途端、すでに「うっ」と来る空気。


友人と二人、中とは逆方向に進みたい気持ちを抑えて、中へと入っていきました。
しばらくすると、少し広い場所に出て、先ほどまでのうっとする重い空気は
どこへやら、なんだか心地よい光と暖かさに包まれた場所がありました。

その日の名古屋は、なんだか空気が重く沈んだ感じがしていて、
もうすぐ雨でも降りそうな気配の雲行きで、肌寒い感じがしたのですが、
その場所にいるだけで、エネルギーが満ちてきて、なんだか暖かいを通り越して
暑いくらいになってきました。


その場所に名残惜しい気持ちでわかれを告げて、先へ進むと、
突然、そこに現れたのは、天上から光が降り注いでいるような場所。
そして私の目に映ったのは、金色の光に包まれた荘厳な本殿。

思わず息を呑むような光景でした。
今までいくつもの有名どころの神社に足を運びましたが、
こんな風に光輝いている本殿を見たのは、後にも先にもこれがはじめてでした。


その場所全体が金色に輝いているのだけれど、
本殿の奥からは、また違った光が溢れ出ている・・・、そんな感じです。
あの感じ・・、今まで一度も味わったことのない、
正に天上の光とエネルギーを体現したような場所・・・。


正直それは、今日はここに来られただけで満足、と
思ったくらいすばらしいものでした。

本殿には明らかに、高い存在がおられ、そこから
私たちにエネルギーを使って話しかけて来られるのです。
話かける・・・、という私たちの認識とは全く違うやり方、
言葉ではなく、必要な意識の部分をまるごと見せる、というような感じです。


光輝く神・・・。
その姿はわからず、名前も知らない・・・、けれどその存在の高さと
輝きだけは、私たちにも分かりました。

人間が付けた名は、その存在の一部分をも現わす事はできず、
その存在にふさわしい名など存在しない、と感じました。
その方は多分、いつもそこにおられるのではないのでしょう。
もしそうなら、熱田神宮の名は、遥かに遠くまで響き、もっと
多くの人々を引き寄せずにはいないでしょう。


ただ、その時のその本殿の荘厳さと例えようもない美しさは、
派手派手しいものではなく、繊細で細やかで、それでいて、圧倒的な
ものでした。
今まで、感じたことのない高さと美しさがそこには存在していました。


人は強い力を素晴らしいと思っています。
けれど、本当の価値はその高さにあるのです。
その高さ、美しさは、その心に添うものにしか見る事はできません。
何を美しいと思うのかも、その人の心次第なのですから。


まだまだ、続きます・・・。
ああ、私っていつもどうしてこう、簡潔に書けないんだろう・・・。(^^;)



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アセンションへの旅

yoko162007-04-25

このタイトルしかつけようがない気がするので、
今日はこのタイトルで書きますね。
昨日は、熱田神宮へ行ってきました。
それは参拝のためではなく、魂のお仕事をするためでした。


この後に書く事は、またまた信じられないことの連発に
なってしまいます。
読みたくない人はここで帰りましょう。
反発を感じたり、不快な思いをせずに済みますから。


でもここで私は、脚色せずにただその時起こったこと、
覚えていることを書き留めて行こうと思います。
ここに書くことを皆さんが、信じようと信じまいと構いません。
ただ何が真実かは、あなたの魂だけが知っている事なのです。




昨日、友人と二人で名古屋にある熱田神宮に行ってきました。
友人にとっては、九州から来ての長旅になりましたが、
この事は、去年の年末にやってきた啓示によって、
決定されていました。


2007年4月24日に私と友人のEさんと2人で熱田神宮へ行くこと。
そこで何をするのかは、私たちにもさっぱり分からないまま、
ただその日に熱田神宮へ行くべし、との通達のような
内容でした。


友人のEさんは、私とは魂の双子・・・、いわゆるツインソウルです。
私たちは共に同じ仕事をするために、ここへやってきた事を認識しています。


これまでも去年の夏あたりから始まった、この一連の流れは、
それを納得するまでにしばしの時間を要しましたが、
今ではもう、自分たちにとっては納得せざるを得ない真実であると
知っていますし、それを誰が否定しようと、私たちの中で揺らぐ事はないと
感じています。


去年の夏あたりから始まったことを、少しずつここにも書いていこうと思います。
なぜ今、これを書き始めたのか、なぜ私がアセンションと言うものを意識し始めたのか、
その本当の理由は、こうした一連の啓示によるものだったことを
お伝えしていこうと思います。



さて、話を昨日のことに戻しましょう。
4月24日、熱田神宮


私たちに分かっていたのは、そのことだけでした。
普通、定められた日程が近づいてくると、たいていその前に
メッセージが続き、その時に行われること、私たちがやるべき仕事の
内容が明らかになっていくのですが、今回に限り、ぎりぎりまで
実際私たちが何をすればいいのか、熱田神宮で一体何があるのか、
皆目分からないままでした。


結局、私たちは平日に出かけなければならない事や、
4月の忙しいシーズンに決まったことなど、人間的には都合が悪いと
思いながらも、その日に出かけることに決めていました。
それ以外に選択の余地はないと、知っていたからでした。


そして、前日の23日に友人は我が家へやってきました。
前日から私たちには、やっておくべき事があるらしい
との事で、その晩私たちは何をやるのか、啓示がやって来るのを二人で待ちました。
たいていお互いのどちらかに、あるいは一度に、様々なメッセージがやってきます。


22日の日になって、やっと当日の事が少し理解できそうなことを
聞いた、と友人から電話がありました。「YOKOちゃんにはなんか来た?」と。
そう、私にもそこはかとなく、ではあるけれど、確かに気づきがありました。
多分、これかな、と。

友人の聞いたのは「5次元の扉を開け、敷居を踏むこと」と。
私が気づいたのは、私と友人は陰と陽の勾玉であり、一つになる事で
完全な玉となる、ということ。
龍の光る玉。

白と藍、陽と陰の玉。


二人で、自分の受け取った物を照らし合わせて見たけれど、この時点でも
このメッセージがいったい全体何を意味しているのかさっぱり分かりません。(苦笑)
5次元の敷居を踏むって、いったいどういうことなのよ、私たちが陰と陽の玉だったら、
どうなのよ、と。


まるで謎解きのようで、いつもこのなぞなぞを解くのに苦労してしまいます。
でも、とにかく今回やって来るのは、頭で考えるな、という一点張り。
友人はこんなメッセージも受け取っていました。
スサノオのことを思いなさい。彼は神だけれど、人のように恨みや妬みなどの感情を
たくさん持っていた。それが彼をあのように荒ぶるものにしてしまった。
あなた達の中にもそれがあるのに、あなた達はそれを全く認めようとしていない。
そのことについて考えなさい」と。


正直、これを聞かされた時にも、二人で???・・・。(苦笑)
なんとなく理解できたのは、神の力を持ちながら、人間の感情に振り回されると
どういうことになるか・・、それが私たちの中で暴れ始めたら、
手のつけようがない事になる・・、ということ。
そして、私たちが全く認めようとしていないというこれらの感情について、
考えなさい、とそのメッセージは伝えてきていました。


「そうか、まだそんなものが山ほど残ってるのか、もうかなりなくなったんじゃないかと
思っていたのに・・」よく分からないけれど、なんとなくそんなことを思っていました。


とか言いつつ、その後毎日やることがありすぎて、飛ぶように日々は過ぎていき、
気づいたら、もうその日が目前、というような有様でした。
その日が目の前だということさえ、忘れそうなくらいめまぐるしかったのです。
二人揃ってそんな状態でした。


そして、前日の23日に友人はやってきました。
その晩、家の者が寝静まってから、私たちは当日までにやるべき事を
やろうと考えていました。
いつもなら、この調子で夜中の3時までも話しをするために起きている私たちが、
この日はなぜか夕方からもう、眠くて眠くてたまりません。
正直あっという間に終らせて、とっとと眠った方がいい、と考えていました。


とはいえ、私たちの前にやってきた「明日のために今夜中に5次元の敷居を踏む」という
指示を何とかしなければなりません。


でも、私たちは困りました。何しろ、5次元そのものがまだどういう状態を指すのかも、
正直分かっていないのに、一体どうやって「5次元の敷居を踏む」事なんてできるんでしょう?


雲を掴むような話に私たちは呆然としていました。(笑)
そして、私たちは互いに何かがやって来るのを待ちました。
でも、いかんせんものすごく眠くて、ぼーっとしていると寝てしまいそうになるのです。
それを何とか無理やり、起こしていると、二人の朦朧とした頭に、
少しずつ何かやってきました。


「頭で考えるな。」
もう、この時点で頭で考えることはほとんどできなくなっていたのですが、
何をすればいいのー、という思いは、ひたすらそれを考えることに
集中していたらしいのでした。

何度もやって来るのは、「5次元の敷居を踏む」事を思うたびに
「なにをすればそんなことができるのか?」と考えてしまう私たちに、
「考えるな」というメッセージ。


正にここしばらくは、考えられない状況がずっと続いていたことに
二人とも気づきました。
頭で考えれば考えるほど、こんがらがってしまって何も出てこない・・・。
でも眠いから、それも億劫な感じ・・・。

「そうか、じゃあ、もう考えるのをやめればいいんだ!」ってメッセージは
そういい続けていたのに、まるではじめて思いついたように私は
いいました。(笑)
すると、唐突に「5次元の敷居を踏むって事は、私たちは今日アセンションするって
事じゃないか」という思いがやってきました。
そうでなければ、5次元の敷居なんて踏めるはずがありません。


「ええーっ・・。でも、そういうことだよね。」と驚く私たち。
今日アセンションして、明日熱田神宮に向かう、というわけ。


そう思いついた途端、なぜかふわーっと光が降ってきて、
その場が急に明るくなって光り始めました。
そしてものすごく、軽くなったのを感じました。
空気が軽く、エネルギーも軽く、体さえも軽くなったような感覚。

体重を計ったら実際、減っているんじゃないかと思えるような、
軽さ・・・・。


なんだろう・・・?
このすごい明るさと軽さは・・・?


妙に居心地のよさを感じます。
綺麗で明るくて軽くて・・・・。
そして、私は「はっ」と気づきました。
もしかしたら、私たちアセンションした・・・?


そう、その場で私たちはアセンションしていました。
一体、何が起きたのか、さっぱりわからないまま・・・・。
ただ理解できたのは、その場がとにかく明るくて軽かったこと。


明るくて軽いこと、これが5次元の世界なんだ・・・。
頭では今も理解していません。


なぜそんなことで、アセンションできてしまったのか?
アセンションしたら、突然、全く違う世界に住むわけではないと
思っていたけれど、これは意外すぎました。

物理的には何一つ起きた気配がないのです。
けれど、私たちの世界は、明るく軽くなった・・・・。
そして、次元が違っているはずなのに、何も変わった様子は見・ら・れ・な・いのです。

でも、確かに明らかに私たちにとっては、何かが違っている・・、
これは真実。


5次元とは明るく、軽い世界なんだ・・・。
その時、私たちは頭ではなく、感覚で理解しました。
頭で考えている間、私たちは何ひとつ、本当のことを理解することはできませんでした。
けれど考えることを放棄し、ただ感じることを選択した瞬間、
私たちにそれが訪れたのです。


なぜそうなったかをお話することはできません。
どんな言葉にしても、そのことを考えはじめてしまうからであり、
それは5次元の言葉ではなく、5次元とは何のかかわりもないものへと
変化してしまうからなのです。


私たちは、ただ認識しました。
自分たちがアセンションしたのだ、ということを。


説明を求めないで下さい。
この事は説明できる事柄ではないのです。
説明を求め、説明を望む間、その人にアセンションは訪れません。
今回のアセンション「5次元への移行」は、考えることを放棄し、
感じることを認めた瞬間に訪れるのだと、この時私たちは突然理解したのです。


そして、丸ごと自分という存在をただ受け入れた瞬間、アセンションするのです。
この感覚は言葉にできません。
そして、いまだにそのアセンションがどういうことなのか、どういうものなのか、
私にも理解できていません。
おいおい、わかってきたことから、できるだけお伝えしていこうと思います。

このつづきはまた書きます。


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真実を見わける力

yoko162007-04-20

真実を見分ける力を磨きましょう。

これから世界はますます混迷を深めて行きます。
たくさんの人が真っ向から違うことを様々に
言い始めるでしょう。

そうすると、次第に一体何を信じればいいのか分からなくなる
場面に出くわすでしょう。
そんな時、人にはそれを見極める力が必要になってきます。


たくさんの人がこれは真実だと言うでしょう。
なるほど真実とは、その人のレベルに応じて
変わってくるものであるために、その人がどのレベルにいるかによって
その人の真実が違うのは、実は当然のことなのです。


つまり大切なのは、他の人ではなく、「あなたにとっての真実は何か」
を知る事なのです。

表面の「どれが嘘で、どれが本当か」という言葉に惑わされていると
永久にあなたはその迷宮から抜けることができません。
その言葉は単なるあなたを惑わす迷宮に過ぎません。


判断を下す時、「どれが真実でどれが嘘か」で
考えるのはやめましょう。

本当は「どれが愛でどれが愛ではないか」で
見分けるのです。



私たちの存在は、魂という「愛」でできています。
この言葉がどう響こうとも、その真実が変わることはありません。


何が真実かそうでないかを判断する時、
その人が何から発言しているのかに、注目してください。
表面的に何を言っているかは、全く関係ありません。
表向きにどんな美辞麗句を連ねていても、そこに「愛」がなければ、
真実とはかけ離れています。
けれど逆に、どんなに厳しいことを言っていても、
大きく見れば「愛」につながっているのならば、
その人の言葉は、本物なのです。



「愛」はいつでも優しいばかりではありません。
時には厳しく、時には激しいものです。
耳に甘く、優しく響くものにだけ心を傾けているならば、
いつかは、あなたの心は蝕まれていくでしょう。
それは甘いチョコレートを食べ続ける子供のようなものです。
子に親が何も言わず、チョコレートを与え続けるだけならば、
その子は、いずれ虫歯になるのです。


真実とは、いつでも耳に甘く快いものではないかもしれません。
けれど今、自分の中にある闇にも目を向け、
その真実に目を向ける事が、あなたのこれからを
本当の意味で変えてくれるのです。


真実はいつもいつでもあなたが振り向くのを待っています。

表面の人や自分を見るのではなく、自分の中にある真実に
目を向け、素直な自分を見つけ出しましょう。
自分の中に眠る子供のように柔らかな自分を見出し、
明るい世界に連れ出してあげましょう。


そして幸せとは、自分自身を見つけ出す作業だということに
気づいてください。
人とのかかわりの中での幸せは、あなたが本当に
素直な自分を見つけ出した時にだけ、そっと現れるのです。


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同じ人物の過去世を持つ人

yoko162007-04-16

現世に同じ人物の過去世を持つ人が何人も
存在するのですか?

という質問をいただきました。
この質問への答えには、広い意味で、新しい概念に
通じるものがあると思うので、ここに書こうと思います。


この3次元の世界では、人は一人しかここに存在しないことに
なっています。
しかし、それは私たちの3次元的発想と感覚であり、その実、
私たち一人一人は、実は無数に存在しています。


そして、同時に一人でもあるのです。


これはまるで、言葉のパラドックスのようですが、
「事実」です。
この「事実」という言葉も、この言葉が理解できなれければ、
無意味な言葉でしょう。

さて、私たちは物理的な面だけを教えられて生きてきました。
その考えに従えば、「一人の魂がたくさんの人間の肉体に入っている」
という事実は飲み込めないでしょう。

しかし、ここで頭を柔軟にしていただきたいのです。
3次元的考え方に身をおく時、私たちは自分の理解力の幅を
狭めることになります。

新しい意識、新しい概念は、あなたに新しい開かれた認識をもたらします。
それは、過去に私たちが覚えた真実が、その外の世界から見れば
いかに小さく、偏狭なものであるかをあなたに教えるでしょう。


「魂は、永遠の存在です。」
これは、当たり前のように語られている言葉です。

しかし、「一つの魂は無数に分かれることもできます、
また一つに集約することもできるのです。」という言葉を
すぐに理解することは難しいかもしれません。


けれどたとえば、「魂の半身」という言葉を聞いたことがないでしょうか?
強く惹かれあう二つの肉体は、元は一つの魂であった・・・、なんて。

こういう事は、まれではないのです。
そして、広い意味で考えれば、私たちはすべて一つの魂から
成り立っている分けられた魂です。

これを芯から理解するためには、概念の入れ替えが必要になります。
物理的な認識をかなぐり捨てる必要があるでしょう。

例えば、肉体のない、天使の話をしましょう。
天使は、常に私たちの側にいてくれます。
呼べば答えてくれる、それを実感していようといまいと、
あなたがそのように行動すれば、必ずサポートに来てくれます。


でも例えば、一度にたくさんの人が
「大天使ミカエル」の名を呼んだとしましょう。
すると、人間的な考え方から行くと、ミカエルという存在は一つですから、
当然、現れるのは、一人の人の所だけとなるでしょう。
それもその中でももっとも、心の美しい人の元に現れるだろう、
なんて想像しませんか?

けれど大天使ミカエルは、そのすべての人の元を訪います。
すべての人の元に行くことができるのです。

彼にできないことはありません。
何しろ、天使の中でももっとも力のある、
強い輝きを持った天使なのですから。




なんて言ったら、信じますか?
もちろん、これはジョークです。


彼がすべての人の元へいけるのは、
もっとも気高い天使で、強い力を持っているからではなく、
霊なので、すべての場所に存在が可能なのです。
そういう意味で、どんな下級天使だってそれができるのです。
ただ、ミカエルほどはその名を呼んでもらえないだけなのです。


これは、私たち人間にも当てはまります。
そして、すべての存在に対して。

肉体を持たない、魂であり、霊である存在なら、制約を持たずに
どこに出かけることも、どのような姿になることも、100万もの自分の
分身を作ることも、可能なのです。


あなたの頭の制約をはずしてください。
私たちは、本来霊であり、魂です。
私たちの肉体には、それなりの制約もあれば
私たちが作り上げた枷もありますが、
私たちの魂にはその制約はありません。
あなたの魂が望めば、すべてが可能なのです。


霊がさまよってしまうのは、肉体の頃の意識がそのまま残っていて、
それが枷になっているからであり、彼らは、その枷が消えれば、
自分のあるべき場所に帰っていくことができるのです。


そして、私たちはこれからこの肉体を持ったまま、
その霊の世界、魂の世界へと足を踏み入れようとしています。


ここは、私たちの過去の概念は、全く通用しない場所に変容していくのです。
しかしその時、私たちが、この3次元の世界の概念を背負ったままならば、
新しいその世界で、行き場を失った霊たちのようにさまようことになります。

そこがどんなに素晴らしい場所であっても、地獄のように何もない場所に
映るでしょう。
あなたの魂が本当は何を求めているのかに気づくことができるなら、
あなたは、自然に新しい概念がどういうものであるかに気づくことが
できるようになるでしょう。


あなたが迷子にならないためには、新しいこの概念を
ぜひ手に入れてください。

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