光と共に歩む

yoko162007-04-04

アセンションという、自分でも認めてはいなかった言葉を
使い始めて、数ヶ月。
私の周りで何かが変わって行きました。


離れて行く人、また惹かれてくる人・・。
不思議なことに、私の人間的な意識の中では現実からは
かけ離れていると感じていた
言葉をたくさん使いはじめてから出会った人々は、
逆に意識がとても高くて、初めから振動数が高いことに
驚くばかりです。


以前はそうした、目に見えないことを人々に伝えることは、
自分にとって大きな危険を伴うという強い恐れを持っていました。
これは子供の頃から、そうした能力を人に知られる時、
過剰な期待と怖れを相手に抱かせることを知っていたからであり、
私から見れば、意味もない強い反応をする人たちをたくさん見てきたために、
そうした人々をひきつけたくない、という強い思いがあったのです。


ところが今、私が少しずつ、自分の事を語りはじめてからというもの、
やって来る方々は、なぜか私を理解してくださる方ばかりでした。


これもまた、私の振動数が変わったから、という理由なのでしょう。
以前の私は明らかに今よりもずっと振動数は低く、エネルギーの純度も
低かったために、そうした意識を引き寄せていたのだと今では感じます。

そして、そういう私自身の意識こそが低かったのだと。


私が人の中に見る怖れや、不安や期待や、強い感情は、まさしく自分の中に
あったのだとやっと理解できるようになりました。
そのことを長いこと、自分の口から言ってきたにもかかわらず、
自分自身は、それを本当の意味で理解していなかったのだと理解したのです。


理解は、自分の進度に従って深くなっていくものなのだと、
最近になって分かるようになりました。
その時はその時の意識でもって理解していたのです。
けれど、自分が学べば、それは理解とすら呼べるものではなかったと
今は思えるのです。
ただ、それがいけないのではなく、その時はその時の進度でもって
精一杯私なりの理解をしていたのです。


理解とは、なんと奥が深いものなのかと、改めて思います。


心の奥に在るものをどのように投げかけて、変化して行くのか、
人生とは、とても貴重で面白いものだと近ごろつくづく思うのです。


以前、ある人のセミナーを受けて、その後の気づきによって、
一時私は自分自身を見失いそうになりました。
自分自身というものが、実は、幻想に過ぎないと心底気づいた時、
私は自分の足場を失った気がしました。
奈落の底に突き落とされ、私が今までこの世界で学んだことはなんだったのかと
自分の目の前が真っ暗になったことを覚えています。


地獄の底に突き落とされたような思い。
それは、単なる自分の中での出来事でしかなかったのですが、
それは私に大きな変化を与えました。

「人は人であって、人ではない。」
「私たちは、バラバラに存在していながら一つである。」

以前は、概念として自分の中に在るに過ぎなかったものの正体を
目の当たりにした時、私は衝撃で立っていることさえままなりませんでした。



この感覚を言葉で伝えることは、私にはできそうもありません。
どんな言葉で伝えたとしても、私の感覚は私にしかないものであり、
人にはその人の持つ感覚でしか捕らえることができないものだから。


今では、新しい自分のこの概念を言葉で伝えようと空しい努力を続ける気は
なくなりました。
本当に必要ならば、その人が自分の意識で理解するはず。
その人の自身の学びによって、それを得るはず、と思うからです。

だから、私はただ、私に起きた出来事を綴っていこうと思うように
なったのです。
とはいえ、まだまだ自分の中に大きな躊躇があるのは否めません。


一旦は奈落の底をのぞいたとしても、所詮私はまだ人として生きているのであり、
食事もし、眠りもするのです。
ただ一つ分かっているは、私は、これまで自分が思っていたような存在ではなかった、
ということだけ。


長いこと、自分が何をすればいいのか分からず、彷徨っていた事を考えると、
今は少なくとも、それだけは理解しているのです。


そして、神の計画の一部なりと自分は感じる事ができるという確信も。
高次元からの伝言は、いつも巨大な計画のほんの小さなピースに過ぎません。
それを一つずつ、伝えてきます。



時々、私はその計画の全貌を知りたくて、イライラすることがあります。
何しろ、私に伝えられるのは、一つのプロジェクトのごく一部分でしかないので、
その時の私が知りうるのは、ごくごく一部分に過ぎないからです。


その時の私には、その伝言の理由が何一つ見えていません。
私は、ただそのメッセージにしたがって、一つの駒になっているにすぎないのです。
それが私を無性にじれったくさせるのです。


けれど、その後もピースは一つずつ送られてきます。
そのプロジェクトの青写真たるものは、その時点では私には全く分かっていません。
ただ、私は王国の一人の兵士のように、命じられたままを動くだけなのです。
(もちろん、厳密に言えば誰も私に命じることなどできないのですが)


そして。


いくつものピースがある日、唐突につながる日が来ます。
それは本当に唐突に、自分が楽しみのために行っていた事でさえ、
その計画の一部だったなどということが、後になって判明するのです。
どのピースも大きなパズルの大切な一つであったことを、その時になって
やっと理解するのです。


そしてなぜ、それらのことを先に私に教えられなかったのかも、その時点で
私は理解します。あまりに大きな計画の一部であるそれらは、もし初めから
それを知らされていたなら、人間の私はあまりの内容の大きさに、
おそらく仕事を放棄してしまうでしょう。


多分、私よりも遥かに大きな存在であるそうした存在は、
それを熟知しているのだと思います。
だからこそ、そのすべてを最初から私に知らせる事はせず、
一つ一つのピースだけを私に寄越すのです。
そんな時「本当に神様はいるなぁ」といつも関心させられてしまいます。


だからこそ、私は自分の所にやって来るメッセージが何であれ、
私が中心にいさえすれば、120パーセントの確信を持って信頼し、
それに従うと決めているのです。


そうでなければ、ある日唐突に「どこどこへ行け」などという言葉に
従えるはずがないのですから。(笑)


一番不思議なのは、私が受け取るそうした言葉にたくさんの人が
一緒に来てくださることです。
もっと不思議なのは、どうみても「来るな」と言っているような内容であれば
あるほど、人の集まりが早いこと。(笑)
何人もの人があの内容では行きにくいよね、と言いつつ、来られること。


それはきっと、皆さんが心の底で私がつながるものが何かを
どこかで知っているからだろうと思っています。

頭では理解できなくとも、私たちはすべて奥底でつながっているのですから。


だから、私はこれから先も、魂の声が私をどこに導こうともついて行こうと
決意しています。


それが私にとって、「光と共に歩む」
ということかな・・・と思っています。



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